トピックス
2021.01.25
「八幡製鉄所と私の思い出」作品募集 入賞作品決定!
世界遺産登録5周年の節目に、「官営八幡製鐵所」への思いや「八幡製鉄所」にまつわる思い出を募集しました。
この度は、たくさんのご応募ありがとうございました。厳正な審査の結果、入賞作品が決定しました。
思い出大賞
誇れるもの
徳留 絵里さん
私の祖父は戦後復興を支えた世代の一員、また八幡製鉄所の全盛期の一員でもあった。私がその祖父に結婚相手を紹介した時の出来事である。祖父は早くに娘(私の母)を亡くしたこともあり、母の分まで祖父達を安心させてあげたいと思っていた。そんな時ようやく結婚の報告ができるようになり、今の夫と祖父の家を訪ねた...
誇れるもの
徳留 絵里さん
私の祖父は戦後復興を支えた世代の一員、また八幡製鉄所の全盛期の一員でもあった。私がその祖父に結婚相手を紹介した時の出来事である。祖父は早くに娘(私の母)を亡くしたこともあり、母の分まで祖父達を安心させてあげたいと思っていた。そんな時ようやく結婚の報告ができるようになり、今の夫と祖父の家を訪ねた。祖父は夫が挨拶をし終えるや否や胸元から財布を取り出し、一枚の紙を夫に渡した。それは製鉄所で働いていた時の名刺だった。もう退職をして数十年になるのにその少し黄ばんだ名刺を未だに大切に持っていたのである。祖父はこれが自分の生きた証であり、誇りだと言って肌身離さず持っていたのである。祖父は決して自慢をする人ではなかった。しかし、唯一その時だけは誇らしげに定年まで務めた製鉄所の事を嬉しそうに語っていた。私はそんな祖父が誇りであり、その黄ばんだ名刺が今では私の宝でもある。
北九州市長賞
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思い出は進行形。祖父と製鐵所の歴史をたどるのは今。
泉 優佳理さん
私は今、官営八幡製鐵所と共に生きた祖父の人生と向き合っている。「いつか整理してほしい」と亡父から託...
思い出は進行形。祖父と製鐵所の歴史をたどるのは今。
泉 優佳理さん
私は今、官営八幡製鐵所と共に生きた祖父の人生と向き合っている。「いつか整理してほしい」と亡父から託された、祖父が遺した鉄の塊や外国の絵葉書等が入った箱を今年ようやく開けた。
祖父の人生を、遺されたものや図書館の文献、インターネットの検索等からジグソーパズルのピース集めをするようにたどっている。祖父は1896年に官営製鐵所に入り、1897年の八幡での開庁時に八幡に赴任している。製鐵技術を学ぶために海外にも派遣され、その時のパスポートや海外から家族にあてた葉書等も遺っている。葉書の宛先の住所の変遷は八幡製鐵所の社宅の歴史でもある。そして何よりも祖父の葉書や祖父宛に送られた同僚の人達からの葉書からは、鉄づくりで国を支えようとしてきた人の息遣いを感じる。出銑記念の鉄の文鎮等には当時の喜びを感じる。祖父の人生も鉄もずっしりと重い。
私は今まさに、祖父との、そして製鐵所との思い出を作っている。 -
ルーツ
堺 佳代子さん
私の宝物の一つに父と作り上げたファイルがある。それは、平成18年7月、父と私と娘で辿った八幡製鉄所の...
ルーツ
堺 佳代子さん
私の宝物の一つに父と作り上げたファイルがある。それは、平成18年7月、父と私と娘で辿った八幡製鉄所の記録である。娘は、当時小学3年生だった。父は、鹿児島本線の線路を越え、八幡駅の裏に私たちを連れて行った。「昔、線路の向こうは、製鉄所で働く人しか行くことができなかった」「これは駅と製鉄所を分けていた壁」「あれは昔、石炭を運んだ線路」父は、立ち止まりながら、感慨深く「鉄の都」と呼ばれた頃のことを話してくれた。自由研究として完成した娘のファイルには「私のおじいちゃんは、大分県出身です。製鉄所で働くために八幡に来ました」と書かれていた。高校卒業と同時に八幡に出てきて、母と出会い結婚して家族ができた父は自分の故郷を懐かしく思いながらも静かに八幡の地で生涯を終えた。父が伝えてくれた私のルーツ、娘のルーツである八幡製鉄所。時代が移り、街並みが変わってもあの時の父の顔と共に決して忘れることはない。
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こだわり
渡会 克男さん
中学生の頃、庭で戦艦武蔵の模型を作っていた私を「たいしたもんだ、大和との違いを知っておるとは!」...
こだわり
渡会 克男さん
中学生の頃、庭で戦艦武蔵の模型を作っていた私を「たいしたもんだ、大和との違いを知っておるとは!」と近所の爺さんが褒めてくれた。『明治日本の産業革命遺産』の構成資産として八幡製鉄所が登録されたとき、私はその人の総白髪を思い出した。
「戦艦だけじゃない。鉄は国家なりだ。アメリカやドイツから学んだ技術で今は世界に冠たる会社になっておる」と力説する爺さんは八幡製鉄の元従業員だった。
「外国の技術に寄りかかっていただけじゃない。ワシらは外国に追いつけ追い越せと昼夜工夫を重ねてたんだ。誇りというか、こだわりというか、それを捨てたら進歩はないケエ。―よう覚えとけ、これが正しい会社名だ」
そう言って、爺さんは地べたに棒切れで力強く『八幡製鐵』と書いた。『鐵』と今でも旧字体で書けるのはそのときの爺さんの愛社精神が胸に響いたからだろう。
北九州市世界遺産賞
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私の宝「1901」
稲森 規雄さん
「1901」。この数字は私の人生で大きな支えになっている。1901年11月18日官営八幡製鉄所が操業を開始し...
私の宝「1901」
稲森 規雄さん
「1901」。この数字は私の人生で大きな支えになっている。1901年11月18日官営八幡製鉄所が操業を開始した日だ。その高炉を後世に残すべく昭和46年東田高炉公園開園の折、「1901」のプレート設置が決まり、当時、となりの洞岡高炉で鉄づくりに励んでいた若い私が除幕の大役を仰せつかった。当日震える手で純白のカーテンを徐々に引き、最後の「1」の字が現れると大量の花火が打ち上げられ、数百羽の鳩が放たれた。鼓笛隊が演奏で花を添えそれはそれは盛大なセレモニーだった。奇しくも当日は長男の宮参りの日で、すぐさま製鉄所の守り神でもある高見神社に出向きお祓いを受けた。家族にとっても記念すべき日となった。
今私は、中間市で世界遺産のボランティアガイドをしている。遠賀川ポンプ室の説明に「1901」は欠かせない。あのプレートは私が除幕したのだと言いたいがぐっとこらえてひとりしずかに楽しんでいる。 -
変わらないものはない
古川 雅子さん
父が苦手だった。神経質で横暴な父。十四歳で八幡製鐵所に入り、家族の為に働き続けた父。職人肌で人付き...
変わらないものはない
古川 雅子さん
父が苦手だった。神経質で横暴な父。十四歳で八幡製鐵所に入り、家族の為に働き続けた父。職人肌で人付き合いが苦手な父。そんな父が私の就職に際し、製鐵所を勧めてきた。空港の地上職を目指していたが腕試しに受験、合格してしまった。未練はあったが、一緒の会社に働けば、父が喜ぶかもと思い、その場で決めた。
以来四十年近く働き続けた。入社後構内で一度だけ、父に会った事がある。
構内バスのバス停での出来事。作業着の男性が笑顔で手を振っている。父だった。只々疲れた顔をしていた。胸にくるものがあった。その日から父に対する見方が変わった。同士を得た父は晩酌をしながら時に仕事を語った。そこに昔の神経質な面影は無かった。父に対する苦手意識は消えていた。親子二代の生活を支え続けた八幡製鐵所は今年その名を閉じた。 -
愛しいふるさとの誇り
八田 聖子さん
花の咲いていない金木犀の鉢植えを幼い頃に雪降る起業祭の出店で母に買ってもらった。私は今でも金木犀...
愛しいふるさとの誇り
八田 聖子さん
花の咲いていない金木犀の鉢植えを幼い頃に雪降る起業祭の出店で母に買ってもらった。私は今でも金木犀の香りに気づくとそんな幼い頃のふるさと中央町の賑わいを思い出す。東田高炉公園で友達とかくれんぼしたこと、好きな人に告白するチャンスの一つが『一緒に起業祭に行こうや』というセリフだったこと。街のエネルギーは溶鉱炉から流れる鉄と同じようにとても熱を帯びて活気に満ちあふれ、その熱にも負けない人情もたくさんあった。私はそんな街が大好きだった。そんなふるさとでの楽しい思い出が金木犀の香りから甦る。私は製鐵所で働く誇りを仕事への情熱にしていた方々に社会人のいろはも教えていただいた。『ふるさとは八幡製鐵所のある街です』と転勤族の妻になった私は、新たに暮らす街で出会った人に伝えている。誰にでもすぐ伝わる魔法の言葉とさえ思いながら生きている。八幡製鐵所は大切な故郷の一部、私の名刺がわりになる人生の土台の一部だ。
- 石田 芳紀さん
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公共の電波で運動会の連絡
公共の電波で運動会の連絡
石田 芳紀さん
私は下関で生まれ育った。夕闇迫るころ対岸の北九州を見ると、製鉄所からの火焔は天を焦がし、その夜景は男性的で生き生きとしており、ぜひ製鉄所で働きたいと夢見たものだ。大学を卒業し、夢がかない製鉄所に入社できた。寮生活が始まった直後に製鉄所全体の運動会が鞘ヶ谷競技場で開催されることになった。何万人もの運動会はさぞ豪勢であろうと期待した。直前になり雨天の場合、開催の可否をどのようにして従業員や家族に知らせるのか心配になった。花火を打ち上げても遠方には届かない。もちろん今のようにメールもない。寮のスタッフは次の様に言った。当日の朝、某テレビの7時のニュースを見なさい。背景が高炉台公園であれば晴、河内貯水池であれば雨で運動会は中止。一企業が公共の電波を使うことは許されないであろうが誰が損をするわけでもなく、素晴らしいアイデアだと感心した。当日はとても良い天気で運動会の規模の大きさに圧倒された。
- 井室 秀子さん
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起業祭
起業祭
井室 秀子さん
八幡製鉄所病院の養成所を卒業し看護婦になり仕事に少し慣れてきた3年目の秋のこと。大勢の人で溢れ町中大騒ぎとなる八幡製鉄所の起業祭。出店から香ばしいスルメを焼く匂いや綿菓子や水飴等の甘い香りが漂い、金魚すくいを誘う声や人々の歓声が溢れ、田舎出身の私の心はウキウキワクワク。友人3人おめかしをして町へ祭りへと繰り出し初めての“射撃”デビュー。しかしそう簡単に目指す人形に当る訳がない。そこへ“こうするんだよ”とやはり3人連れの若者が現れて一発で人形に命中。まァ凄い!それが縁となり映画みたいにグループで付き合う事になった。
その中のひとり八幡製鉄所で働いていた夫に一目惚れして結婚。
あれから57年もの月日が経ち、夫82歳私80歳。昔々の八幡製鉄所での仕事の事や起業祭での話等々、八幡製鉄所と共に生きて来た青春時代の想い出話に花が咲き、ふたりで懐かしんでいる毎日である。 - 浦上 美保子さん
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私と八幡製鉄所 ~断片から物語へ~
私と八幡製鉄所 ~断片から物語へ~
浦上 美保子さん
北九州市に住んで4年の私は製鉄所の繁栄についての知識が浅い。そのため通勤電車から見える東田第一高炉跡も単なる景色の一つであり、旧本事務所をVRで見学した時も感動よりも物足りなさを感じていた。ところが先日河内貯水池を車窓から見た時に、その面積の広さに驚嘆した。時を超えて豊かに水を湛えるこの貯水池は、何と八幡製鉄所の工業用水確保のために8年の歳月をかけて造られたと言うではないか。貯水池を眺めるうちに私の頭の中で断片でしかなかった関連施設や写真がまるでプラモデルのように立体的に繋がっていくのを感じた。現在その姿はなくても、日本の産業の近代化に計り知れない貢献をした歴史は、断片を繋ぐことで想像することができるのだ。「建物ではなく建物が見てきた物語が世界遺産」という意味がやっと理解できた私は、東田第一高炉跡の壁面の1901という数字を敬意を持って見上げることができるようになったのである。
- 岡田 昭子さん
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八幡製鉄所と馬油(ばあゆ)のこと
八幡製鉄所と馬油(ばあゆ)のこと
岡田 昭子さん
八幡製鉄所のある八幡市ではなく隣の戸畑市にそれも一年住んだだけなのに「八幡製鉄所」と聞くと今も懐かしい。昭和十八年父の転勤で初めて戸畑に行き国民学校四年生になった。丘の上の家から夜には製鉄所の灯りが見え身近な存在だった。だが翌年にはもう居ない。熊本の田舎の父の実家に弟と二人預けられたのだ。戦局の悪化で八幡製鉄所は爆撃の標的になり児童は田舎に避難させられた。父母家族と離れた弟は二年生で学校でも家でも泣いてばかりいたが或る日、土間で転びかまどの中に腕が入り火傷をした。祖父は横抱きにして隣家に駆け込むと主が何やら奥から持って来て塗った。馬油という物で火傷の妙薬と聞いた。主は以前八幡製鉄所で働いていたという。灼熱の炉の前で上半身裸なので火傷は日常茶飯、職場にいつも馬油があったと。突然聞こえた「八幡製鉄所」の名称。父と母、丘の上に住む家族、製鉄所の灯りが一度によみがえり姉だからと抑えていた涙が溢れた。
- 川崎 順子さん
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三交代勤務
三交代勤務
川崎 順子さん
三交代のきつかった時代が思い出されます。朝出は3時に起きお弁当を作りました。2時出の時は夕食のお弁当を作り、夫は23時に帰宅していました。夜勤の時は夫が昼間寝れるように、私はおんぶ紐、保険証などを持って毎日子供達を連れて外出していました。
大蔵の山から下まで井戸水を汲みに行き、天秤を担いで坂道を登っていました。ガスのない七輪でのお弁当作りは若かったから出来た事でした。お正月には皆で食べれるよう「おせち」を持たせました。
夫は部下思いで、仲間意識が強い人でした。週末には皆でおかずを持ち寄って食べたり、夏にはソーメンを作って部下に食べさせたりしていました。愚痴一つ言わず黙々と働いていました。
三交代勤務での子育ては苦しかったけれど、今となってはいい時代だったと思います。北九州市のシンボルである高炉で働いていた亡き夫をとても誇りに思います。 - 佐藤 三征さん
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八幡市歌・校歌で蘇る製鉄所
八幡市歌・校歌で蘇る製鉄所
佐藤 三征さん
昭和十五年(一九四0)私は旧八幡市枝光で生れた。米欧諸国との大戦争の予兆が匂う年であった。枝光の生家は坂の中腹にあって、そこからは洞海湾、八幡製鉄所を中心とする工場群、左側には皿倉山が望めた。物心つく頃には、もうあの大戦の傷跡は少しずつ癒え、わが国産業再興の要として動き始め、日本四大工業地帯の一つであった。私の八幡製鉄所の思い出は、再興の要を誇らしく歌った母校の校歌や旧八幡市歌である。市立枝光小学校の校歌では、「見よや眼下の製鉄所、鋼を鍛う槌の音♪」の一節はやや朧げではあるものの、県立八幡高等学校の校歌は生々しく記憶している。「鉄の都の暮れ行けば求真のたいまつかかげつつ、誦する経史称ふる祖国♪」更に旧八幡市歌では、「焔延々 波涛を焦がし 煙もうもう天に漲る 天下の壮観わが製鉄所 八幡八幡♪」眼を閉じてこれらの歌を口ずさむと、多感な少年時代を共に過ごしたあの製鉄所が鮮やかに蘇るのである。
- 豊田 毅さん
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あのころ
あのころ
豊田 毅さん
旧八幡市で生まれ育った。七色の煙を見ながら遊んだ。「八幡製鉄所」とは誰も呼ばず「せいてつ」でどこでも通じた。街を東西に走る「水道みち」と呼ばれるまっすぐ伸びた道があった。製鉄に必要な水を通す太い鉄管が埋めてあり、所々に「マルエス」のマークの入ったマンホールがあった。現在の住まいのすぐ近くに水道みちが三ヶ所あるが、マンホールには新しい社章が刻まれている。
毎年十一月十八日は起業祭で学校は休み。大谷周辺は出店と人の波。体育館には有名歌手、広場にはおばけやしきに大サーカス。地球ゴマとシイの実を買ってもらった。一日限りの工場見学では生き物のような溶けた鉄と火花に感動した。祭りは当時珍しかった打上げ花火で三日間の幕を閉じた。
「購買会」で売っていた日本一固い「堅パン」と「くろがねようかん」の味は格別だった。今でもスーパーやコンビニで入手できる七十年前のあのころの味は変わっていない。 - 中山 茂さん
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鉄にかけた智恵と汗
鉄にかけた智恵と汗
中山 茂さん
戦時中、国民学校2年の頃、父が姉と私を起業祭の時だけ見学が許されていた製鉄所構内に連れて行ってくれた。
溶鉱炉からどろどろに溶けた鉄が、火花を散らしながら溝の中を流れ下る出銑作業を見た。作業者は非常に暑いので、防護面をかぶり大きな手袋をし、下駄の様なのを履いていた。大変な作業だと思った。また軌条工場も見た。真っ赤に焼けた鋼材がロールの間を行き来して、最後には汽車や電車のレールになるのだ。機械は大量の水をかけて冷やしていた。父は家の近くにある、養福寺貯水池の水で、それは遠賀川ポンプ室(現、世界遺産)から送られているのだと教えてくれた。
鐵!旧漢字の鐵を分解すると、「鉄は王なるかな(哉)」となる。製鉄技術がまだ幼稚な昔、鉄は高価な金属で、ふんだんには使えなかった。現代のような文化社会の基本的材料として普及した蔭には、製鉄技術のたゆまぬ研究と、労働者の働きがあったからだと思っている。 - 牧野 由明さん
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レールに夢を乗せて『過去へ、未来へ』
レールに夢を乗せて『過去へ、未来へ』
牧野 由明さん
八幡製鉄所では、千九0一年からレールを生産している。その側面には製造年が表示されており、私は古レールの調査で様々なドラマに遭遇した。まず、創業年の『1901』と言う希少レールを探したが『1902』しか存在しなかった。行橋駅構内からは、六百年後の『2603』が発見された。調べると、昭和二十年迄の戦時中は、紀元年だった。
昭和五十七年に、鉄道会社のAさんに呼ばれた。当時私は、新日鉄本社でレールの品質管理を担当していた。「あなたの心に火をつける様な品質問題が発生しました」と言う。「小樽市内で『1610』と表示された四百年前のレールが発見されました。これがその写真です」と。和暦では『慶長十五年』になる。原因は『9』を逆に刻印したと推測出来た。百年前の先輩のミスとは言えず、こう説明した。「当時は蒸気機関車が未開発だったため、徳川家康は乗る事が出来ませんでした」と。Aさんは爆笑し、一件落着となった。 - 松尾 高林さん
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八幡の音
八幡の音
松尾 高林さん
私は八幡に生まれ八幡育ちの“八幡っ子”である。終戦一週間前の8月8日、小学校6年の時、八幡大空襲に遭い九死に一生を得た。その翌年、地元の工業学校に入学。昭和27年に卒業し、憧れの八幡製鉄所に入社。それから定年退職するまでの40年間、人生を豊かに導いてくれた製鉄所に勤めたことは誇りであり、恩義と感謝は確(しか)と胸に収めている。また、多々ある思い出の中で、最も脳裏に焼き付いている、私の宝である情景がある。
入社当時から昭和30年代、故郷の山・皿倉山によく登った。お目当ては下界から沸き起こってくる重厚なハーモニーである。製鉄所から発する重い機械音、所内を走る蒸気機関車の汽笛、出鋼時の鐘の音などに、路面電車や街の様々な音が入り交じって・・・。目を閉じると壮大なオーケストラの世界。その音響は躍動感に溢れ「鉄は国家なり」を象徴していた。あれは正に「八幡の音」だった。あの音を語る者は私だけだろうか? - 松本 裕子さん
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東田高炉に吹く熱い風
東田高炉に吹く熱い風
松本 裕子さん
私と父との思い出は、小学生の頃に遡る。ある日、甲番(日勤)勤務を終えた父がまた夜に丙番(夜勤)の仕事に行こうとしていた。理由は、急用ができた同僚の代わりだという。「お父さん、きついから行かんで」と言う私を尻目に「男は、頑張らんといけんのやぞ」と出かけて行った。溶鉱炉の高熱作業は、塩を舐めながらの過酷な仕事と聞く。父は、八幡製鉄所の一員としての誇りをもち、仕事一筋に生きてきた人なのだ。私は、そんな責任感の強い父の姿をみて育った。そのおかげで何の不自由もない暮らしをさせてもらった。起業祭の時、東田高炉の工場見学があった、ちょうどあの日、働いていたらしい。まるで宇宙服を着ている様な姿に驚いた。
あれから、目の病と闘いながら四十五年間勤め上げた。父が亡くなって十五年。心から親孝行できたのかと日々考える。時々、電車から東田高炉を眺める。火が入っていたあの頃の高炉に父の面影を重ねて見ている。 - 毛利 ミツコさん
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16才。学徒動員での想い出。
16才。学徒動員での想い出。
毛利 ミツコさん
戦時中、大分の女学校生だった私は、学徒動員で八幡製鉄所で旋盤をしました。旋盤の破片が胸元に入り火傷をした事もありました。10センチ程の鉄の棒状の物を削り、それはその後に他の会社で小さな部品になり飛行機の一部分になると聞いていました。
私の課の太宰課長はとても良い方で、「仕事も大切だが君達は学生だから勉強もしないといけない」といつも話され、週に一日程勉強時間を設け、自ら教えてくださいました。他部署の人からは羨ましがられたものです。
寮は到津の山手で、当時としては麦ご飯でまあまあの食事でした。電車に乗り八幡製鉄所まで通い、休みの日は貯水池等連れていってもらった記憶があります。
数日休暇となり、実家に戻っていた時に終戦を迎えました。「アメリカが入っているから危ない」と父同行で寮に戻ると布団から全て持ち去られていた事を覚えています。
私92才。終戦まで約10ヶ月の昔の記憶です。 - 吉永 景子さん
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畑で採れる鉄
畑で採れる鉄
吉永 景子さん
「てつーう。」三年九組数十名が、声を揃えて答えた。これは、五十年前の修学旅行の一コマ。
京都での一日、九州から来た中学生に、バスガイドの女性は、こう尋ねた。
「皆さんの所の畑では、今頃、何が採れるんどすー。」
畑?田んぼ?当時の黒崎地区は、北九州工業地帯の中心地。八幡製鉄所、安川電機、三菱化成・・・等々で働く人々が多く住む街、そして、衣・食を担う街であった。畑の「は」の字もない。八幡で全国的に有名な物は・・・?級友と首をかしげ、思案の末、中学生は「鉄」という答を導き出したのである。
バスガイドさんは、きょとんとした表情で、しばし沈黙であった。
数時間後、買い物が許される自由行動となった。「新京極は、人がぎょうさん。迷子に気ぃつけて。」ここでもギャップが。黒崎商店街の方が、はるかに人が多かったのだ。
お問い合わせ先
北九州市企画調整局
総務課世界遺産係
093-582-2922


















